この世界は、差別と偏見の世界です。きれいごとを並べて差別をやめましょう。偏見は悪いことですと騒いでも、差別する人は変わらないのです。
そうではなく捉え方の問題ですが、他人を変えようとしてもその人は絶対変わりません!絶対変わらないのです。人はそのように昔からできているのです。自然状態の他人をこちらの思うままに動かせたら、それは洗脳でしょう?
私がここで述べているのは、絶対的不可能論ではありません。むしろ、相対的可能論とでも言いたいくらいです。
つまり自覚すれば一瞬で人は変われますが、ありたい自分でいたいと感じなければ、変わらないというのことです。
自由の国とか揶揄されるアメリカですが、人種差別の坩堝というかシチューみたいな国ですね。白人系(アングロ・サクソン等)、ヒスパニック系、アジア系(黄色人種)、黒人系と大別されますが、新コロナ感染症拡散後、人種間や貧富の差の拡大による分断が大きな話題となっています。
日本では肌身に感じることの少ない事例ですが、他の国では人種が違って話す言葉や文化が違うことがあたりまえですし、個人で差があるのが前提条件の国なのです。よってこの条件を理解しないと大きな壁に突き当たります。日本も文化の質の差こそあれ、この状況に近い構図が現れ始めています。これは、またの機会にお話しましょう。
文化の質が異なるので、相手の背景に見え隠れする文化の質の差を理解し差分を埋めてゆく作業をせずに交流するのは難しいでしょう。残念ですが、相手がわかってくれるはずという思惑がいっさい通じません。
ことばは、ただの『道具』です。
一貫した態度や思いやりで向き合うことが大切ですね。日本人同士ならなおさらこれは大切なのですが、これを意識的にできている人がいるのでしょうか?
もし、できているのなら、この先は読まないで結構ですから退席していただいてOK!
表面的な優しさより大切なのは、思いやりでしょう?常に自分の延長線上に他人がいることを感じて行動すること。何も海外に行かなくてもいいんです。これができれば、どこに行ってもほぼ大丈夫でしょう。
大切なのは、態度と行動の積み重ねが、その人を作っているという事実です。作法が人格や行動を掌り、人生の方向性を決めている。
人生の目的を誰も教えないのが、戦後教育の誤ちではないのか?と感じるのです。知識偏重教育の果てに自分で考えず他人と比べて浮き沈みという自己肯定力の低い国民を量産してしまった。わたしたちは、地域ごとに多様な文化を持っていた筈です。
黒澤明監督作品で、『生きる』という映画がありました。戦後の復興期に公園を作るため命を削って市民の要望を叶えようとした。今では公園はどこにでもある。しかしながら、同じものがどこにでもあることのどこがよいのですか?
利便性を優先し、首都に集中した結果、世界でも類を見ない歪な地域差を作ってしまった。もちろん過疎になる地域はどこの国にもあります。それには理由があり、対策を講じています。
しかし、日本ではそれがない。どこも同じなのがよいことという思い込みがあるから、個人を認めない。承認欲求は、大なり小なり誰にでもありますが、依存的な関係を望むようになり、個人として自立できません。
生きるということを他人任せにする風潮がますます強くなってきたと感じるのです。
これをお読みのReaders各位の考えは如何でしょうか?
日本という国の文化や伝統は、他の国から絶賛されておりますが、日本に暮らすわたしたちに自分の文化を尊び護ってゆく覚悟が無ければ、モノで豊かになって心が滅びた人たちとなること必定です。
自分自身を省みて、先祖の遺した文化伝統を護ること。すなわち日本人が日本人であるためにあたりまえのことをするのです。
ここに述べたのは、体制批判ではありません。
ただ、主観も多分に入ってございますが、自分で見て聞いた感想を述べている次第です。
百聞は一見に如かずでしょう?
To be continued…………
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